2011/12/30

私の棲む街つくば



住むというより,私が棲む街つくばは,ほとんど全てがこの40年ほどの間に造られた街です。つくば駅ができたのもつい最近わずか6年前のことです。だから,こんな田舎なのにつくば駅は地下駅,まるで都内の地下鉄のように階段を下りてはじめて駅だとわかります。上の写真はそんなつくば駅の真上に昨年,新たにつくられたバスターミナルの昨晩の様子です。

18時頃に撮影したのですが,本当に閑散としています。なぜって,つくばは研究機関が多く,研究職の方が県外から移住して来られることが多いからでしょう。年末のこの時期帰省のために人口が一気に減ります。東京と同じですね。

特徴的なのは中央に見えるH-Ⅱロケット,まさかここから打ち上げするわけではなくて,つくばエキスポセンターという科学教育施設に立てられている実物大模型です。当然本物と同じ大きさなので,かなり大きいものです。ライトアップまでされていて,初めて見る人は,ちょっとビックリするでしょうね。ロケットが目印の街というのも,他にはないでしょう。



自分は本当は,隣の土浦の生まれです。でも土浦のはずれなので,数百メートル歩けばつくば市でした。私の子どもの頃は,つくばの街は,まだまだ未完成で,至る所が工事中だったのを思い出します。都市計画をもとに造られた街なので,最初に4車線の道路が何本もつくられ,至る所に公園が整備されました。そしてその公園を結ぶように遊歩道が整備され,特に中心地区は歩道と車道が橋できちんとわけられています。
写真は,そんな遊歩道の中程にある筑波センター周辺のLED電飾で飾られた街路樹です。後ろに見えるビルには電飾が,まるで雪がふるようにひかえめについたり消えたりしています。このビル,ライトオンという関東圏ではそこそこ有名なアパレル企業の本社です。店舗も併設されていて,年賀状を出すついでに今日はそこで買い物をしてきました。

自分が,育った頃の土浦には,西友やイトウヨーカドウ,丸井,京成など様々なお店がありました。買い物といえば土浦にバスで行くのが当たり前の時代でした。お店の名前や企業の名前が大きく入ったネオンサインの点滅が今でも強く目に焼き付いています。あの感じが自分の昭和のイメージです。
ライトオン本店の雪のような電飾には,企業名さえ入っていません。入り口にいけばライトオンとわかりますけど,夜には遠くからでは何の建物かさえわからないでしょう。それでもあえて過剰な広告を出さないこのスタイルが,今の時代を象徴しているように思います。

2011/12/24

先人が遺してくれたものが使えることに感謝を表したい

 昨晩録画しておいたNHKスペシャル「世界を変えた男 スティーブジョブズ」を見た。彼の死後すぐに伝記が出版されている。書店に並んでいるからその存在を知っておられる方は多いだろう。私も知ってはいたのだが,買う気にはならなかった。日本では電子版でも書籍で購入するのと同じ値段(アメリカでは半額らしい)であったこともあって,Ⅰ巻とⅡ巻あわせて約4千円を自分のiPadにダウンロードするのに躊躇していたからだ。
 NHKスペシャルでは,ジョブズに関わった人達から彼の姿が語られていた。私が購入を躊躇してきた彼の伝記が元になった番組だった。そして番組の最後は,ジョブズ自身の次の言葉でしめくくられていた。

スティーブ・ジョブズⅡ 第41章 受け継がれていくモノ pp314-315 より引用
 なにが僕を駆り立ているのか。クリエイティブな人というのは、先人が遺してくれたものが使えることに感謝を表したいと思っているはずだ。僕が使っている言葉も数学も、僕は発明してない。自分の食べ物はごくわずかしか作っていないし、自分の服なんて作ったことさえない。
 僕がいろいろできるのは、同じ人類のメンバーがいろいろしてくれているからであり、すべて、先人の肩に乗せてもらっているからなんだ。そして、僕らの大半は、人類全体になにかをお返ししたい、人類全体の流れに何かを加えたいと思っているんだ。

引用としては,この程度が限界だろうか,後はぜひ購入して読んでほしい。私も番組が終わった直後にダウンロード,最初と最後を読んで,今真ん中を読み進めている。私はこの言葉が番組のしめくくりに映し出した瞬間に,涙が出るほどうれしかった。本当に涙が出てきた。なぜって,それはITの時代最もクリエイティブで輝いていた彼が,先人が遺してくれたものが使えることに感謝を表したい・・・と語っているから,彼の伝記がこの言葉でしめくくられていることの意味の大きさを感じたからだ。IT業界を引っ張り,時代をリードしてきたジョブズの言葉であることの重みは大きい。

技術は人類の文化だと思う。この4~5年子ども達といっしょになって授業で学びを共有し,先輩達の学びを後輩達に継承していく取り組みを続けてきた私は,実践を進めれば進めるほどこの感覚が人類共通の感覚であるべきだと思いを深めている。今日また,ジョブズの言葉に触れてその確信を深めた。
先日著作権の授業をした。「○○をコピーしてはいけません」とか,「○○をコピーして友達にあげることは法律で禁止されています。」なんていう程度の知識はすぐにはげ落ちてしまうしその人の将来を変えることにはつながらない。しかし,何かを参考にして自分なりの工夫を加えて作品をつくり出す経験を3年間にわたって積みかねた時,子ども達の反応は全く違ってくる。 守らなくてはならないとは知っていたけど,自分にとって著作権は面倒なだけと思っていた生徒が,著作権があることで,さらに優れた作品を生み出すことができることを知って考えが変わったと書いている。詳しい分析はこの冬休みに行うつもりだが,先日評価出しをしながら,これまでの授業の感想(まとめ)とは全く違うレベルの反応が書かれていた。

自分は技術を支える社会の一員なんだと,実感をもって理解させられる技術教育を目指したい。

2011/11/03

ロボコン県大会最後の一日

ロボコン茨城県大会が終わった。ロボコンをはじめて10年目になるが,今日は最後の一日だったのだと今ふりかえっている。

「先輩を越えたい!自分にもできるはずだ!」

ロボコンではある意味で,生徒たちにその時点の自分達の能力以上のことができるような感覚をもたせることが私の一番の仕事といってもいいすぎではない。

乗り越えたいと思った時,先輩が何を学んできたかを彼らは必死に学ぼうとする。その試行錯誤の中で,いつしか先輩を超える瞬間がやってくる。それも先輩と全く同じ方法でというより,先輩が気づかなかった方法であったり,先輩が試していなかった方法であることが多い。

5教科の勉強をしていても,先輩を乗り越えたという実感をもつことは難しい。点数では比較できるかもしれないが,先輩の学びの成果が自分の学びに生かされているという感覚がないからだ。ロボコンを学んで卒業していった生徒たちには,自分の学びが後輩の学びに生かされているという実感がある。それが私の学校のロボコンの学びだ。


先輩の学びは,私という指導者を介して後輩達に伝えられることもある。私には教えているという意識はなくて,年度を越えて生徒たちの学びをつないでいるという感覚がある。詭弁だと感じる人もいるかもしれないが,指導者としての意識はロボコンを実践するようになってから,劇的に変わってしまった。

県大会でロボコン大賞をとるために生徒達を指導しようという意識では,生徒たちの間にロボコン技術文化を育ませることはできない。無理に指導しても,生徒たちがついてくるはずもない。

生徒一人一人が「先輩を越えたい!自分にもできるはずだ!」と感じてくれた時,一人の指導者の頑張りだけでは達成できない生徒の学びが実現する。ロボコンは私に,技術教育は指導者だけで作り上げるものではないことを教えてくれた。

今日の県大会では,私の学校からは8チーム全てが出場して,8チーム全てが予選リーグを勝ち上がった。最後に1チームが残った。「ろぼ音頭fin」彼らは,ロボコン大賞を受賞した。私の学校では選択教科は来年からなくなってしまう。今年は選択ロボコン最後の年だ。

谷田部東中の選択ロボコンで学んだ卒業生達に胸をはっていいたい。

今年も後輩達は先輩を超えたよと

みんな,ありがとう。

2011/10/08

Think different.

 マックの宣伝に使われていたキャッチコピーだ。だが,ただのコピーではない。Appleという会社,その会社を率いてきたスティーブ・ジョブズの思想がそこには込められている。

この国の人々は,人と同じ考えをする人を好む。最近,今を第二次世界大戦前と重ねて考える番組がNHKスペシャルなどでよく放映されているが,都市という都市を空襲され,原爆を2発も落とされ,どうにも立ちゆかなくなるまでこの国の戦争は続いた。戦後は驚異的な復興を果たし,工業国としての世界的な評価を確立できたのも,人と同じ考えをする人を好むことと無関係とは思えない。
今,この国は膨大な借金を抱え,多くの人々が自分の進むべき道をみつけられずにいる。みなが同じ考え方をすれば,一つの道が行き詰まった時に必ず破綻がやってくるのは当然なのかもしれない。このまま同じ考え方を続けたなら,いつか来た道を繰り返してしまうことになる。


私は,みなと同じ考えをすることが基本的に嫌いだ。なにかをする時には,必ず逆,あるいは違う方法を考えてみる。何かを指示された時には,その指示の背後に何があるのかをまず考える。会話をする時も相手の考えた内容を,さらに進めて考えてみる。あるいは,その逆の極端な例を考える。そんなことを毎日やっていることに,最近気づいた。
技術教育での典型は,ロボコンの授業だろう。誰かがやった定評のある方法を試すだけでは,本当の面白みを味わうことはできない。他の分野のアイディアをヒントに,誰もが考えもしなかった方法で機構を実現した時の充実感,それを他のチームが採用してくれた時のうれしさは,言葉には表しきれない。ジョブズは,これを世界規模で達成した人なのではないだろうか。

技術を発展させたり,人類の歴史を進めることができるのは,人と違う考え方が出来る人だ。

ジョブズはパソコンを発明した人といっていいだろう。専門家のものだったコンピュータを個人が使えるものとして製品化したのは彼だ。マウスオペレーションのOSも彼が実現したといっていい。そして,今,iPhoneやiPadはタッチスクリーンだ。既存の技術を時代にあわせ,最適な条件で組み合わせコンピュータに形を与えてきたのが彼の仕事だった。

ジョブズなきあと,誰がその後を担うのか,直接的には誰かなのかもしれないが,影響を受けた誰もが彼の精神を継承していると私は思う。

Think different.

2011/09/11

立体グリグリV3.4リリース 著作権者の立場から著作権を学ぶ

立体グリグリVersion3.4をリリースした。開発自体は1年前に完了いていたのだが,うちの学校での実践での検証と,数多くの立体データを収録しての配布だ。
http://www.gijyutu.com/g-soft/guriguri/

今回のバージョンUPの肝は,左の画面写真の右下のところに表示される。著作権情報という欄だ。立体グリグリで作成した立体に著作権情報を掲載することができるようになった。

授業では,3時間かけて作成したオリジナル立体にその立体的な図面の著作権情報を記入させる。そんなのたいしたことないだろうと思うかもしれないが,そこが新しいところだ。これまで著作権の学習というと,著作権を守りましょうといった著作権保護の学習が中心に据えられてきていた。しかし,著作権などの知的財産権は,本来守るためや守らせるためにあるものではない。著作権も著者の死後一定の期間をすぎると誰もが自由に使うことができるパブリックドメインになる。著作権を守るのは,著作権者の立場にある人が報酬を得られるようにすることで,文化や文明をより豊かなものにしていくことにある。

例えば,レオナルドダビンチの設計した様々な図面には著作権はもうない,パブリックドメインとして誰もが参考にすることができる。実際,彼の設計にインスパイアーされた技術者は多いだろう。産業革命の時代イギリスでは,ワットの蒸気機関などたくさんの技術者の手によって様々なアイディアが特許として出願され,一定期間の間独占的に利用できることとひきかえに,全ての人に公開され,一定期間後には,全ての人が自由に使うことができるパブリックドメインとなった。著作権と特許権の違いもあるが,それ以前に,こうした仕組みが,技術や文化を発展させるための仕掛けであることを伝えたい。

授業では,まず先輩の作品を参考にさせる。その先輩の作品が立体グリグリVersion3.4には収録されている。それらを見せた上で,自分で著作権情報を入力する際には,○○先輩の作品を参考にしたと明確に記述させる。何も参考にしていないは許されない。参考にされるものは先輩の作品ばかりではない,金閣寺や銀閣寺の立体を作り上げた生徒たちは,いずれもその建築の構造やバランスに驚き,著作権情報にその記載をしていた。

著作権者の立場になって,著作権者でさえ何かを参考にしなければ,何も生み出せないことを実感を込めて理解させたい。立体グリグリVersion3.4ならそれが可能だ。

2011/09/05

原発事故,技術教育に今できること

今,テストを採点しながら,東大の児玉龍彦氏(放射線医学の専門家)のインタビューをUstreamで見てた。夏休みはじめにツイッターで児玉氏の国会での発言を知り,youtubeで見た時にはその怒りに圧倒されて,これが今の現実なんだと理解した。
http://www.youtube.com/watch?v=O9sTLQSZfwo

そんな児玉氏がUstreamのインタビューでは笑顔で話されている。
http://www.ustream.tv/recorded/16442790/highlight/192344#utm_campaign=fhighlights&utm_source=6&utm_medium=technology

しかし,内容はシビアだ。放射能がまき散らされてしまったこと,これまでの常識を越えて広範囲に,法律の想定を越えていること。線量の高い地域に住むかどうするかは,被災者が決めるべき問題であること(患者が治療法を選択するという例えはわかりやすかった。)。
自分も震災の直後に同じようなことを,このBLOGに書いたが,自分にできることを精一杯やることが,この原発事故の問題を解決することにつながると信じるしかない。

技術科の授業ではエネルギー変換が来年度から選択から完全に必修となる。何を作るかばかり考えるよりも,今目の前の技術の問題,社会的課題に正面から向き合わなければならないはず。教科書に書かれていないとかそんな問題ではない現実が今目の前に広がっている。3月11日から半年がすぎようとしている今,世の中はあの時のことを忘れようとしてはいないだろうか。今この瞬間にも7万人を越える人達が避難している。校庭で遊べない子ども達がいる。この事実から私達は何を学ぶべきなのか。

茨城では,原子力ハンドブックなるものが,各学校に配布され,原子力教育が推進されてきた。書かれているのは科学的には正しい内容だ。事故に対してこれまでどう対応してきたかも正確に要約して書かれている。しかし,自分にはその先に「だから原子力発電は大丈夫なんですよ。必要なんですよ。」という編者の意図が見えてしまう。自分の考えを生徒に押しつけることはしないが,事実を生徒の前に示して,判断をさせるのが本来の姿のはずだ。

どんなやり方ができるのか,原子力ハンドブックが全てではないはず,技術科教師で知恵を持ち寄って生徒に何を伝え,どう判断させていくのか,しっかりとした授業を組み上げたい。技術教育に関わるものにとって,それが自分達にできる精一杯頑張れることなのではないか。

偶然にも昨年度,消費電力量リミッター http://www.ashida-design.com/data/limiterGEL-1_pamphlet_110214.pdf というアイディアを考え教材化していただいていた。あらかじめ設定した消費電力量に達した時に電源をカットする機能と,DCモーターなどの消費電力量をリアルタイムに表示できる。このBLOGでも以前その検証の様子を紹介している。http://gijyutu.blogspot.com/2010/08/blog-post.html この教材は既に市販され,購入可能だ。
先日学会でも公開したが,大学の先生方の反応はかなりいい。LEDと電球の比較もできるだろうなど,アイディアもいただいた。どう使うかは,現場の先生方次第,学校に1台あれば消費電力を意識された授業展開が可能になる。

これまでエネルギー変換といいながら,効率や損失については授業ではほとんど無視されてきた。原発事故が起こった今,消費電力量という単位を授業に導入する価値は高まっている。この課題を私達の総力をあげて乗り越えようと思う。技術教育が社会の期待に応えるのは今だ。

2011/08/09

乾繭の技術

かえってきたら,1匹ほどやっぱり羽化していました。しかも早々と力尽きていて彼の人生を思うと悲しい限りです。

繭を乾燥することを,乾繭(けんかん)というのだそうです。乾燥させることで,絹糸の品質を高めるという目的と,水分が減ることでカビが発生したり,害虫に食われるようなことを防ぐ目的もあります。そして,同時にこの乾繭で蚕を殺すことなります。

繭に穴があくと,一本の糸でできている繭からとれる糸が極端に短くなり商品としては使い物にならなくなるのだそうです。いろいろ調べてみましたが,1日冷蔵庫に入れて成長を止めてから乾繭するというのが本当のやり方にようです。養蚕業では,この部分については,農家の担当ではありません。乾繭工場に繭を出荷するところまでが農家の仕事のようです。

繭をつくって10日ほどで羽化しますから,この連携は時間との勝負ですね。という私も家族旅行なんかにいっている場合ではなかったのかもしれません。

そこで,今日から乾繭の方法を変えることにしまいた。参考にしたのはこの豊田市近代の産業とくらし発見館の公式ブログです。

いままでは,蚕さんについてきたB4×2枚ほどの解説書に従ってきたわけですが,このままでは次々に蚕さんたちが羽化していまいそう・・・そして今日はガンガンに晴れて日差しも強い!

参考にしたページによると,車の車内フロントガラスの直射日光の当たるところに置いて乾繭するとのことなので,私はこうしてみました。吉と出るか,凶と出るかはわかりませんが,金属製のお菓子の箱に繭を入れて,上からラップをするという仕掛けです。金属なので,直射日光にあてるとガンガンに熱くなります。しかもラップがあるのでその場の空気も車の中以上に一気に上昇するはずです。やってみたら1時間ほどでラップが白く曇りました。蛹の水分が蒸発してラップの内側に細かい水滴になってついたことになります。ということはこの空気を逃してあげないといけないということになります。ラップに早速穴をあけ空気を通すために端をちょっとだけまくっておきました。これでうまくいくかな。

解説書にはない方法ですが,まだまだ試行錯誤中です。蚕の飼育については,詳しいページが数多くあり,とても参考になります。

2011/08/07

夏休みの家族旅行中


奥日光湯元温泉にきています。猛烈な雷雨でたどり着くか心配でしたが,温泉にも入れてやれやれです。明日,湯の湖一周のハイキングに出かけようと思います。晴れる予報ですが,足下がちょっと心配です。湯の湖一周1時間です。未学齢児が2人いるので,ゆっくり朝食前にハイキングの予定です。

蚕さん達は,あのペットボトルに入れたまま,ベランダに置いてきました。どうなっていることやら・・・。日差しが十分でなく温度が上がらないのではと思えます。雨が入り込んで乾燥どころではないかもしれません。もしかしたら羽化してしまっているかも・・・。

2011/08/06

31個の繭がとれました


31個の繭がとれました。まぶしから地道に取り外すのは結構な労働かもしれません。繭をつくる直前に蚕さんたちがしていった糞は,いつもの糞ではなくて,色が白っぽいものです。乾燥していてあまり汚いという印象ではないのですが,その糞を取ってあげて白い繭の部分だけを切り取りました。

繭をとった後のまぶしはなんとも寂しい限り,足場になっていた糸がなんともいえない悲しさを漂わせます。

しかし,まぶしの善し悪しが繭の善し悪しに影響するというのはよく分かりました。一定品質の繭を生産しようとおもったら,この部分の工夫は欠かせませんね。回転まぶしや,稲わらで作ったまぶしなど全国各地には,様々な工夫があることもWebを検索していてわかりました。次回はまぶしの改善に取り組みたいと思います。

同時期に一斉に繭をつくるように飼育するのも必要な技術だと思います。この後糸をいかにして取るかを考えていかねばならないのですが,この部分にもかなりの技術がありそうです。


今回とれた31個の繭ですが,この後乾燥させます。

そう,蚕さん達には,乾燥という名の死が待っています。生物を飼育するということは,いつかこういうことが待っているということです。彼らの命を無駄にせず,使い切ることが蚕さん達への礼儀だと思うことにします。

31個の繭の重さは,約80gでした。一ヶ月飼育しても80gなんだと思うと同時に,繭の重さには当然蛹の重さも入っていますから,絹糸や絹織物をつくるために,どれだけ手間暇がかかっているのかを実感できます。

とりあえず,解説書に書いてあった乾燥の方法を試すことにします。
ネットに入れて,ペットボトルにつるし上から黒いビニールをかぶせ直射日光に当たるところに3日間ほどおきます。内部の温度は,60度~80度になり,蛹が乾燥するということのようです。

繭の重さが,40%~50%にすることで,羽化を防止することになります。子孫を残すためには,羽化して交尾をしなければなりません。しかし,今回は全てを乾燥させることにします。まだ私には世代をつなげるノウハウがありません。

今日から3日間,乾燥させた後,いかにして糸をとるか考えたいと思います。



繭の中には蛹が

かえってきたら,小さなからだの蚕さんだけが残り,1匹は糸をはく場所が適切でなく力尽きお亡くなりになっていました。残りは全て繭になったことになります。30個は越えたと思います。


まずは,6月26日~28日にかけて最初にできた繭からまぶしから取り出してみました。かなりがっちりとまぶしに足場用の糸で取り付けられているのではがすのが結構大変です。


そして,まぶしをとってみてビックリその裏に巨大な繭が・・・。これはまぶしのような適切な場所でなかったこととが原因かと思ったのですが,それだけではなかったようです。この1週間裏側をみていなかったのは失敗でした。


巨大な繭の中を見てみると,さなぎになりかけの蚕さんが2匹,そうなんです。2匹で繭をつくってしまったがために巨大に,しかしその巨大さゆえに繭は十分な堅さにならず,繭として機能しません。糸もとれないかもしれません。真綿としてなら使えるかな・・・。

2011/08/03

新幹線の車窓から


蚕さんたちは大丈夫だろうか・・・不安を感じつつも,まぶしを大きな段ボールの中に入れ空気が入るようにふたをしてきました。早く繭になった蚕さんは,この3日間で丁度10日になります。もしかするとかえったら羽化しているかもしれません。

すぐに繭を乾燥させる準備が必要ですね。しかし,この作業で蚕さん達はすべてお亡くなりになることになります。そのために飼われているのが蚕さんですから,仕方ないのですが,これだけ世話をするとこんな私でもちょっと感じるものがあります。繭大事につかいたいですね。

2011/08/02

28匹が繭をつくり,3匹は繭をつくろうとし,1匹は小さすぎて・・・


蚕さんたちは,4匹を残して全て繭になりました。明日から研究会で3日ほど留守にするのですが,もはや蚕さん達は餌を食べようとはしません。残り4匹もうまくまぶしの中で繭をつくってくれるのを祈るばかりです。

一匹だけ小さな蚕さんがいます。食も進まず,体は他の蚕さんの1/5にもみたないサイズです。彼は繭をつくれないかも,かなしいけど,それが現実かもしれません。

2011/07/31

一気に繭の数が増えました。




こちらが,今日の朝のマンションまぶしの様子です。まだまだ空きがあるという感じですが


今夜になって,繭の数が圧倒的に増えました。しかし,この数日気温が上がらず糸を吐く量も,これまでの蚕さん達と比べると今ひとつのように思います。私自身は暑いのは苦手ですが,もう少し気温が上がってもいいかもと思う今日この頃です。蚕さんが繭をつくるためには,25度が必要と読みました。今日は箱にふたをして暖めて寝ることにします。

2011/07/29

マンションまぶし 新規入居歓迎キャンペーン


今日も朝6匹ほどが,箱の隅で糸をはきだしはじめたようだったので,割り箸でつまんで,マンションまぶしに入居です。入れてあげた箱ではなかなか繭をつくりはじめず,2~3の枠を確認しながら繭をつくりはじめます。中には,箱の外につくりはじめるやつもいて,仕方ないので割り箸でつまんで,強制入居させています。


そして,これが,今日の夜の状態です。箱の隅で糸をはきはじめた12匹がさらに入居開始,本当にマンションという感じになってきました。これだけ多いといろんなトラブルがあって,2匹で1つの繭をつくりはじめてしまう蚕もいたりします。仕方ないので1匹を引き出し・・・別の枠にうつしました。後から思いましたが,大きい繭になってもらうのもおもしろかったのかもしれません。



かなり大きくなって5齢も後期ではないかと・・・


おそらく5齢も後期,ここ数日人工資料を食べる量が一気に減っています。これは,繭をつくる兆しかもしれません。いくつか気付きが他にもあります。繭を作る直前の糞がいろが違います。蚕によってはいつもは黒い糞が,白っぽくなったり,みどりっぽくなります。糸をはきはじめるサインでしょうか。

2011/07/28

繭が3つになりました


繭が3つになりました。まぶし速攻でつくって本当によかった。マンション型にしてみたのですが,高いところに繭をつくる習性があり,その習性を利用した回転まぶしなるものが養蚕では当たり前に使われていたようです。蚕が上に登ると上が重たくなって勝手に回転して蚕が均等にまぶしに入る仕掛けです。私にはそんな余裕はなかったので,紙で仕切っただけです。

箱の隅にいって糸を吐き始めるタイミングを見ておかないと,糸を吐きすぎてしまわないかと心配です。しっかりと繭をつくっていただくためには,面倒をきちんとみないといけませんね。



毎日のように繭をつくってくれるので,蚕を気持ち悪いといいながら見ていたうちの子ども達もじっと観察してくれるようになりました。繭をつくっている最初のうちは,中で蚕さんが頑張って糸を吐いている様子が透けて見えます。なかなかおもしろい教材です。

一晩かけて繭になる


ついに最初の繭ができました。そして実はもう一匹糸をはきはじめた蚕さんがいて,昨日まぶしにうつしておいたら,今朝にはこちらも繭になっていました。2個繭ができたことになります。あと30匹分全て繭をつくることができるといいな~。

あれだけたくさんの餌を食べていた蚕がいきなり何も食べなくなって,糸をはきはじめる姿をみて実際に飼うと生物という実感があります。確かに知識としては知っていましたが,繭ができるまでにこれだけの手間がかかって,蚕は10000倍の成長を成し遂げてようやく繭にたどりつきます。

2011/07/26

30分でまぶしをつくる


解説書をばっと読んで,サクサク作ったので加工精度はいい加減ですが,この程度でもよいのではと思えたので,ボール紙の箱を分解したボール紙を使ってまぶしをつくりました。これを箱の中にたてかけて,あとは糸をはきはじめた蚕さんを次々にうつしていくというわけです。



一匹目の蚕さんは,なぜか最初にいれてあげた場所をよしとせず。斜め上まで上がって繭をつくりはじめました。2日もすれば繭になるのだそうです。楽しみになってきました。でもこれだけ生育に差が出ると同じ品質の繭を生産するのは大変だなと思います。ここから先は技が必要な領域ですね。


当然だけど,絹ですねこれは


一匹の蚕さんが箱のすみに無駄にはき出してしまった糸をよりあわせてみました。いや~当然ですがきれいな糸です。これが絹糸なんですね。均一の太さにするには技術が必要なのだとか,とりあえず真綿から糸を紡ぐ感覚をちょっとだけ体験しました。

ついに繭をつくりはじめる


今日は帰って蚕さんたちを観察しようとしてびっくり,まだまだと思っていた繭をつくろうとしはじめる蚕さんが出始めました。これはいかんということで,すぐに「まぶし」の作成に着手,まぶしというのが蚕が繭をつくる部屋の名前のよう,養蚕業では,回転まぶしなどが使われていていろいろ工夫されていることも知りました。ともかくも部屋を作らないと。

2011/07/23

4齢から5齢へ,抜け殻も大きい!


1齢や2齢の脱皮の時には見えなかった抜け殻がはっきり見えます。ちょっと1日分を集めて撮影してみました。どれも1~2cmの大きさはあるかな。割り箸などで拾ってあげて,蚕さんが快適に過ごせるように世話をします。

2011/07/21

蚕の目は何処にある?


ついにここまで大きくなりました。とはいっても昨日の写真とは蚕さんへの近づき方が違いますが・・・。しかしいずれにしても蚕さんが日に日に巨大化しているのは事実,もうびっくりです。

蚕の目ってどこか知っていますか。これはアゲハ蝶の幼虫などもそうなのですが,まるで目のように見える斑点(眼状紋)があります。大きな目の偽物があることが天敵から身を守るために必要な時代があったということでしょうか?諸説ありますが,口のまわりに小さな点が・・・それが本当の目です。

2011/07/20

巨大化のスピード劇的に早まる


人工飼料の直径は,約5cmほどです。蚕さんの大きさがわかりますね。網も大きなものに変更です。気になるのは蚕さんの大きさが個体によってかなり違うこと,このままいくと繭をつくる時期にずれが大きくなってしまわないか心配になってきました。この大きさは4齢か?・・・一気に食べる量と糞の量が飛躍的に増えました。もう人工飼料は直径のままあげています。解説書によると大きな魚肉ソーセージのようなパッケージの人工飼料は,4齢と5齢で9割ほどを消費するようです。

この育ち方を見ると納得です。おそらくすでに卵から比べて千倍以上になっています。めざせ一万倍!

2011/07/19

3齢 or 4齢 それが問題だ・・・


蚕さん達はどんどん大きくなり,3齢なのかそれとも4齢なのか,よくわかりません。やはり眠の状態と脱皮した後の殻が人工飼料の上では見にくいのでしょうか? しかしまあ,蚕さんは毎朝毎晩箱をチェンジしながら網の上で大きくなり,ついにこの網では限界の大きさになりました。

2011/07/18

蚕さん順調に大きくなっています。


蚕さん達は,今日もまた一段と大きくなりました。よく食べよく糞をします。この数日掃除の大変さがだいぶちがってきました。糞の処分に悩んでいたのですが,よくよく考えてみれば,庭にまいて肥料にすればよいことに気付き,すぐに実行です。

2011/07/17

引っ越したのは,こんな段ボール


引っ越したのは,こんな段ボールです。よくamazonで買い物をした時に梱包に使われているような段ボールです。網を使うことで,餌の入れ替えを行うようです。しかし,やってみると,一部の鈍い蚕さん達が,新しい餌ののった網側に移動してくれません。困ったので,近くに竹串をおき,乗り移ったところで引き上げ,最後の何匹かは手作業で移動させました。

2011/07/16

蚕の引っ越し!


蚕の引っ越しに取り組みました。シャーレではいっぱいっぱいの蚕さんたちを見かねて移動です。脱皮なんですが,人工飼料で育てているせいか,よくわかりません。でもこれだけの大きさになっているなら普通に考えて3齢だと思います。よくわからないことばかりです。

シャーレに入っていた頃にはあんまり気にならなかった糞の量が,圧倒的に増えてきました。毎日,いや毎朝,毎晩変えてあげるぐらいの頻度で世話が必要です。今数えると30匹の蚕さんがいます。みんな大きな繭をつくるんだよ。

2011/07/14

2齢の蚕ついに眠に入る


自宅に帰ってみると蚕さん達はさらに巨大化,しかも明らかに白くなった。確実に朝より大きい。しかも小さい個体はせわしく動いているのに,全くといっていいほど動きません。ようやくわかりました。これが眠というやつです。脱皮をする直前にしばらく動かなくなるのです。1齢から2齢になる時の脱皮は,あまりにも小さくて私には見えませんでした。今度ははっきりと観察できそうです。

3齢になると,いよいよシャーレから飼育箱にお引っ越しになります。今日は準備を整えて,明日か明後日の脱皮を待ちたいと思います。

2011/07/13

蚕さんシャーレでは限界か?


蚕さんはだいぶ大きくなりました。2齢としては大きい方でしょう。ただ,まだまだ小さい個体があって,その差が出てしまうのは,私の飼育方法に問題があるのだと思います。初めてなので仕方ないとは思いますが,工業製品のようにはいかないのが,生物育成なんですね。

2011/07/11

だいぶ虫らしい大きさになりました。


どんどん大きくなる2齢の蚕たち! まだまだ爪の先程度の大きさですが大きくなりました。よ~くみていると顔つきもわかります。モスラのようです。(^^)/

さて,ここで困ったのが人工飼料からなかなか離れない蚕さん達,新しい人工飼料を入れても,古い表面がもう食い尽くされた人工飼料にいつまでも居座る蚕さんがいらっしゃいます。このままではシャーレが飼料でいっぱいになっていまうので,仕方なく古い飼料から蚕さんを地道に竹串に移ってもらいながら移動させました。

やってみてわかりました。飼料はだいぶくいつくされています。見ているだけではわからないんですねこれが・・・。表面がすかすかで,蚕の足のねばねば成分がからみついて,とりにくくやりにくかったです。しかし無事蚕さんの移動も完了,新しい飼料の上でどんどん食べています。

2011/07/10

こんなに成長が早いのにびっくり!

どんどん大きくなる蚕さん達,卵から考えると信じられないぐらい大きくなりました。それでもまだ指先サイズですが,色が明らかに黒くないということは,いつの間にか2齢になっているみたいです。はじめてだとわからないことばかりです。

ここから先は,どんどん大きくなるようです。特にここのところ気温も高めですから,代謝も盛んになって成長も早いのかもしれません。時期によっては,保温が必要とのことですが,今年の夏は暑さ対策が必要になりそうです。

大学のサークルの先輩からFACEBOOKで,桑の葉で飼育した場合の問題点も教えていただきました。手軽に確実にという点では,1回目は,人工飼料で通した方がよいのかもしれません。

うちのやつが,隣の公園に桑が植わっていると教えてくれたのですが,毎日そこから葉っぱを取るわけにもいきません。(1枚ぐらいなら・・・だめですよねやっぱり・・・)

脱皮を繰り返すたびに,大きくなっていくようです。この調子で順調に育ってくれるのを期待!


2011/07/09

1齢動き回る



見た目はあまりかわいくないかもいれませんが,人工飼料の上にたくさんの1齢の蚕がいます。孵化(ふか)しなかった卵が1つ①,孵化した後人工飼料を食べてないやつ②が数匹いますが,他の蚕はわずか1日で体がむくむくと大きくなり,人工飼料を与えて丸1日でかなり大きくなりました。解説書によれば,順調に生育した蚕は明日にも眠(みん)とよばれる状態になり,脱皮のための準備に入ります。そして脱皮すると2齢になります。

2011/07/08

蚕が孵化したよ


気づいてみたら,ほとんどの卵が孵化(ふか)していました。小さいです。卵が小さいですから当然ですが,成長して繭を作るためには,1万倍以上になると知ってびっくりです。今は小さなシャーレに収まっていますが,今月末には,とんでもなく大きくなっているのだと思います。

与えた餌,飼育の条件,気温,湿度,栽培でも大事かもしれませんが,養蚕でも同じなのですね。

この状態は1齢と呼ばれるそうで,脱皮を繰り返し5齢になると1万倍になるのだそうです。まさに神秘的。今は本当にいるのかどうかわからないくらい小さいですから。私が購入した蚕は,学校教材としてある教材会社から販売されているものです,この蚕には人工飼料がついてきます。桑の葉をすぐに手に入れられない私にとっては助かります。

2011/07/06

蚕がやって来ました。

蚕がついに我が家にやってきました。来年からの生物育成のために我が家で夏の自由研究の開始です。これまで様々な実践を見てきましたが,地元茨城の結城市というところでは蚕がつくった繭の真綿から糸を紡ぎ,結城紬という超有名な伝統工芸があります。つくば市でも数十年前までは当たり前のように蚕を飼っていたのですが,養蚕で生計を立てている農家はなくなっていまったようです。

蚕は,以前群馬のあの有名な富岡市の近くで技術科教師をされている先生に紹介いただいたことがあります。最初に見た時にはちょっとショックを受けましたが,小学校の頃アゲハの幼虫を指の上にのせて遊んでいたのを思い出し,飼ってみることになりまいた。

蚕の飼育,特に繁殖は,養蚕業にとっては生命線で,養蚕が盛んだった当時は,一般人にはできないものであったと聞きます。蚕に関する書籍を何冊か読みましたが(小学生向けのものがとっても読みやすい。当たり前か),牛や豚を飼育されている方が口蹄疫に厳格に対処されるのと同じく,蚕にも口蹄疫のような蚕特有の病気があり,その病気が蔓延すると,地域の養蚕が壊滅的な打撃を受けてしまうからと知りました。

なにより,蚕という虫が,太古の昔から人に飼われて品種改良され,人の手なしには生きていけない昆虫になっていると知り奥の深さを知りました。まだ卵ですが,動きだすのを楽しみにしています。

2011/05/16

佐藤学の書籍を読み返しているうちに,「教師の自立的な連帯へ」という文章を再発見した。

佐藤学の書籍を読み返しているうちに,「教師の自立的な連帯へ」という文章を再発見した。(シリーズ学びと文化6 学び合う共同体 pp163-pp171)

「学び合い」や「学びの共同体」といって荒れた学校を建て直すための特効薬のように考えられている教師が多いように思うが,彼の発想の原点はそこにはない。この「教師の自立的な連帯へ」は佐藤学の「学び合い」がまだ広く語られていない頃(1996年)の文章だ。(岳陽中の実践は2001年から)

今「学び合い」は教師の自立的連帯とはかけ離れた使われ方をしていることが目立ってきていないだろうか。佐藤学はどう答えるのだろうか。教師自身が自ら学ぶことを忘れている。与えられた「学び合い」の考えをさらに発展させようとするならわかるのだが,何か定式にはめて教師を縛ることがもてはやされている。

「学び合い」という形を学ぼうとしている教師は多い,でもなぜ「学び合い」だったのかは忘れ去られようとしている。本当に必要なのは佐藤学の「学び合い」を乗り越えることなのではないか。教師の間に同僚性を築くこと,それは職員研修をするためではない,自立的な連帯を通して自分で考え学ぶ教師を育て,学校を改革することが本来の姿なのではないか。そう思えた。

2011/05/15

原発という技術のガバナンス

4月に中学校に入学したばかりの1年生に向けてガイダンスの授業を行った。技術とは何かを身近なものからアイディアを発見させる実習を行わせる中で考えさせた。授業の最後にいつの間にか原発の話をしていた。
「一般の人は技術を知らなくていいのだろうか?本当に専門家任せでいいのだろうか?」
と言い放った時の生徒たちの顔が忘れられない。

多くの生徒は,何がどのように危険で,そのリスクをどういった技術で回避し利用しているのかについても,原発事故の前にはほとんど関心がなかったに違いない。しかし,次々に放射性物質による汚染が広まり,身近でもわずかながら放射線量が増加いている現実を知って,事の重大さを実感している。

それに対して,大人の言動には信じられないものが多かった。
「福島に原発があるのを知らなかった。」
「原子力発電は環境にいいと思っていた。」
「こんなに広い範囲で影響が出るなんて知らなかった。」
そんな大人が有権者として,これまで国策として進められてきた原子力政策を後押ししてきた。

東京電力は福島と新潟に原発をつくり首都圏の電力の多くをまかなっていたことをCMしていたし,CO2を出さないといっても廃棄物や事故が起こった時に大きなリスクがあることぐらい知っているものと思っていた。私自身もこの数ヶ月で原子炉のことにはだいぶ詳しくなったけれども,その安全性に対して厳しい目を向けてこなかった大人には大きな責任がある。

2011/05/14

本当の技術(technology)の姿

中学校技術科では来年度(2012年度)から,栽培やエネルギー,コンピュータ制御など選択的内容であった学習内容が全て必修となる。多くの技術科教師が今まさに題材開発,授業づくりの試行錯誤の真っ最中だ。
少ない授業時間数でこれまでにない多岐にわたる内容を教えなければならない現実は,今にして思うと,「何のための技術教育か」と考えようとする教師のゆとりを奪い,結果的に「何のために技術を学ぶのか」を考える時間を生徒から奪っていたように思える。

2011年3月11日,東日本大震災は起こってしまった。厳しい耐震基準で建てられたこの国の多くの建物はマグニチュード9.0,最大震度7の地震に耐えた。しかし,巨大な津波は,防潮堤を壊し,鉄筋コンクリートの建物を飲み込み,多くの人命を奪い,破壊の限りを尽くした。
CO2を出さず地球環境に優しいはずの原子力発電所は,想定外の津波で破壊され,炉心溶融を起こし,大量の放射性物質をまき散らした。家に戻れない人たちが何万人もいる。放射線量が高い地域では,校庭での活動が制限され,農作物や水産物の汚染も深刻だ。

地震が起きて数日,断水が続く中,テレビやネットでとんでもない量の信じられない情報を一気に知った時,これが「技術」の本当の姿なのだと理解した。過去の地震で鍛え上げられた耐震基準。現代土木技術を軽々とねじふせた津波。どんな自然災害でも絶対安全と過信されてきた原発。

技術科教師17年目にこんなことを考えることになるなんて思いもしなかった。
「 あ~これが本当の技術(technology)の姿なんだ・・・ 」

今私たちが使うことのできる技術(technology)は,10万年前の石器以来,自然と対峙する中で数限りない先人の犠牲の上に獲得されたものだ。なぜ,今まで考えもしなかったのだろう。つい2ヶ月前まで自然は技術で御せるものであるかのうような錯覚をしていた。自然は文明を幾度となく滅ぼし,そのたびに新しい文明を築いてきたのが人間の歴史だ。戦争と技術については,様々な関連が語られてきたように思うが,自然と技術の関わりについて深く考えていなかった。
技術の発達を,今一度自然,天災との関係の中で考えてみたい。これまで気づかなかった視点がまだまだありそうだ。

2011/05/08

ようやくディスプレイに投資



ようやくディスプレイに投資して,まともな作業環境を手にいれました。昨日まで自宅でサブディスプレイとして使っていたVAIOーRのディスプレイは大きいわりに解像度が低く,なかなか使い勝手が悪かったのですが,1万7千円でフルHDの液晶ディスプレイを購入,ようやくまともな作業環境になりました。VAIOーRのディスプレイは,私が毎晩酷使したにもかかわらず6年という長寿命,なかなか立派でした。最後はスイッチが入る時と入らない時が交互におとずれ,最後は電源が入らなくなっての交換です。修理するよりも購入した方が安いのは悲しい現実ですね。

この数時間,いろいろ仕事がはかどります。作業環境は大事ですね。
さーて,これでバリバリ仕事をするぞ!

2011/04/18

原発という技術

M9.0の地震が起こった時から,福島の原発のことが気がかりで仕方なかった。地震で電気が落ち,地震の揺れが続く中,数秒後に学校の電源は復旧した。しかし帰宅してみると自宅のある地区は停電だった。乾電池式のラジオから流れる情報はどれも耳を疑うものばかり,一体何が起こっているのか報道機関でさえつかめていなかった。翌日電源が復旧し,テレビ,twitter,webでとんでもない量の信じられない情報を一気に知ることになる。前日までの平和で穏やかだった日本が幻に思えた。

東京電力は,福島と新潟に原発をつくり,発電された電気は昇圧され超高圧送電線で首都圏へ送られてきた。火力発電のように発電力量を柔軟にコントロールできない原子力発電は,電力消費量が変動しても変わらないベースとなる発電を担う発電所だ。

震災前の東京電力のCM(youtube)

今,このCMを信じられる人はもういない。

2011/03/26

震災を機に

マグニチュード9.0,つくば市は震度6。そのとき自分は学活の授業をしていた。あの時,誰もが感じたことかもしれないが,建物が壊れ下敷きになることを覚悟した。電気が一瞬止まった。数秒後おそらくバックアップの送電系統が立ち上がり,電源が復旧した。5分間ほど続いた揺れのなか冷静の分析しようと考えた。(電源が復旧したということは,原発が止まって,別の系統からの電気が送られてきたということか・・・福島の原発は無事に止まったのか?)揺れの中,生徒達に呼びかけた。「電源が復旧したということは大丈夫だ。」
初期微動がやたらに長かった。遠い震源ということ,なのに,ゆれは半端ではない,どれだけの規模の地震なんだ・・・。生徒達と共に校庭に避難,校庭の真ん中に避難している間にも大きな余震が繰り返された。宮城県沖が動き,茨城県沖までのプレートが一気に動いたと聞かされた。予測されていた東南海地震と同じメカニズムが,東北で現実のものになってしまったことがわかった。生徒達を怪我もなく帰すことができたことにホッとしたが,東北のことを考えると胸が痛かった。
小学生4年生の時に両親と東北地方を旅したことがある。宮城県の牡鹿半島よりも北は岩手県まで全てリアス式海岸,田老の港を見下ろす宿に宿泊した。山肌にはこれまでに田老を襲った津波の高さが白いペンキでマーキングされていた。明治時代に被災した時の白黒写真が残されていた。街のど真ん中に船がとりのこされ,建物が何も残ってない写真を当時の私は何の実感もなく見ていた。それが平成のこの時代に繰り返されてしまった。

この震災以来,たまにしか使っていなかったSNSを本気で使い始めるようになった。twitterだけでなくfacebookなどでのつながりが人々の考えをつなぎあわせ世の中を動かそうとしている。テレビをずっと付けているよりも,twitterで新聞社発の情報をチェックしていた方がいつでも情報にアクセスできるのには正直驚いた。確かにデマも多い,しかし,10年前や20年前には決して得ることができなかった情報に当たり前のように誰もが接することができる。これまで不可能だった情報共有が,今回の震災復興に果たす役割はとてつもなく大きいはずだ。電子的なコミュニティは,決してバーチャルなものではない,現実の社会とリンクしていることに,多くの日本人が気づいたのではないだろうか。

福島第一原発の行方を,自分はしっかりと見ていきたい。起こりうる事態をひとり一人が予測し判断することが求められている。自分が発信者にならなければ,判断する人間にはなれない。今の日本,震災後の日本を生きる一人として,自分の持ち場で自分にできることに全力で取り組むことが,新しい日本を創り上げていくと信じてる。震災を契機に,個々ばらばらだった日本人が,この国の将来を考えはじめている。技術教育の立場からこの国のこれからにコミットしていきたい。