2011/05/16

佐藤学の書籍を読み返しているうちに,「教師の自立的な連帯へ」という文章を再発見した。

佐藤学の書籍を読み返しているうちに,「教師の自立的な連帯へ」という文章を再発見した。(シリーズ学びと文化6 学び合う共同体 pp163-pp171)

「学び合い」や「学びの共同体」といって荒れた学校を建て直すための特効薬のように考えられている教師が多いように思うが,彼の発想の原点はそこにはない。この「教師の自立的な連帯へ」は佐藤学の「学び合い」がまだ広く語られていない頃(1996年)の文章だ。(岳陽中の実践は2001年から)

今「学び合い」は教師の自立的連帯とはかけ離れた使われ方をしていることが目立ってきていないだろうか。佐藤学はどう答えるのだろうか。教師自身が自ら学ぶことを忘れている。与えられた「学び合い」の考えをさらに発展させようとするならわかるのだが,何か定式にはめて教師を縛ることがもてはやされている。

「学び合い」という形を学ぼうとしている教師は多い,でもなぜ「学び合い」だったのかは忘れ去られようとしている。本当に必要なのは佐藤学の「学び合い」を乗り越えることなのではないか。教師の間に同僚性を築くこと,それは職員研修をするためではない,自立的な連帯を通して自分で考え学ぶ教師を育て,学校を改革することが本来の姿なのではないか。そう思えた。

0 件のコメント: